紙の良さは“余白”にある|新聞紙から思い出すこと
私はふだん完全にデジタル派で、ニュースはスマホで読むのが当たり前になっています。
通勤の電車で、指先ひとつで世界の出来事が流れてきて、気になる言葉をタップすればすぐに深掘りできる。
便利さでいえば、もう圧倒的にデジタルが勝っています。でも、ときどき思い出すんです。
家のテーブルに広げられた新聞紙の、あの“余白”の存在を。
昔は朝刊がテーブルに置かれていて、朝食を食べながら何気なく記事を読んだり、
テレビ欄を見て「今夜はこれを見ようかな」と考えたり、生活の一部としてそこにありました。
当たり前すぎて気にも留めなかったけれど、新聞のまわりにはたくさんの“余白”がありました。
読み終わったあと、生活の中で自由に使える余白です。
濡れた靴の中に丸めて入れたり、魚をさばくときの下に敷いたり、窓を拭けば驚くほどクリアになったり、子どもの工作の下敷きにもなる。
野菜の水気取りにも、ストーブの火種にも、引っ越しの梱包にも。新聞紙は、情報を届けるだけで終わらない紙でした。

読み終わったあとも“第二の役割”を自然に引き受けてくれる。
その自由さこそが、新聞紙の余白だったのだと思います。
一方でデジタルの記事には余白がありません。
画面の中にあるのは情報だけで、読み終わったらスッと消えていく。
便利だけれど、生活の中に“居場所”を持たない存在です。
新聞はテーブルに置けば家族が自然と手に取り、ページをめくれば視界にいろんな記事が飛び込んできて、
興味のなかった話題にもふと触れられる“偶然の出会い”がある。
さらに紙の新聞は、インクの匂い、紙の手触り、ページをめくる音といった“読む体験”そのものがやわらかく、画面越しでは得られないゆっくりとした時間が流れます。
そんな魅力がある一方で、数字はとても正直です。
新聞の発行部数は2000年以降急激に減少し、2025年10月時点では約2,486万部とピーク時の半分以下になりました。
割合にすると53.7%の減少で、この20年ほどで約2,000万部が失われた計算になります。
いまも年間およそ150万部のペースで減り続けていて、生活の中で当たり前に見かけた“新聞のある風景”は、静かに姿を変えつつあります。
それでも、新聞紙のあの余白を思い出すと、紙ってやっぱり“生活に寄り添う素材”なんだなぁと感じます。
情報を届けるだけじゃなく、読み終わったあとも生活の中で役に立つ。
新聞紙が持っていたのは、情報の価値だけじゃなく、暮らしの中の自由と安心感でした。
デジタルがどれだけ進んでも、あの余白の心地よさは、きっと紙だけのものなんだと思います。
by 格之進



